2009年8月26日水曜日

論理の2つの切り口

Quineを読んでいる中での大きな気づきとして、自然言語と論理と数理論理の関係が自分なり掴めてきたということがある。

論理というのは、もともとは自然言語およびそれを使った思考の探求であったのだ。もちろん言葉ではその事は知っていたのだが、このQuineの自然言語と論理の対応に対するねちっこさというかなんというかは、体験してみないとわからない理解をくれた。思考がなんであるかの探求とは、狭義の哲学と言ってよいだろう。

ただし、もともと、という話をすると実は少々ややこしいかもしれない。もともとで言えば、数学と哲学はとても近かったし、物理学と哲学だってとても近かった。昔は物理学のことを自然哲学と呼んだ。

違う観点で気づきを述べるなら、それは、

  • 言語哲学
  • 論理学
  • 数理論理学

の違いが自分のなかで見えてきたということだ。上に行くほど、人間の思考というものを自然言語と論理を丹念に調べながら探求する姿勢であり、下に行くほど数学的になる、ということ。

ここで、数学的にというのは、いわゆる公理主義的なということである。すなわち、それが現実の何を表しているかは捨象しちゃってもよい、ということだ。なので、上の方のように、自然言語との対応の精査などは必要とせず、公理からどういうシステムが生まれるかをごりごりやってしまう、ということ。

物理学と数学は数学が抽象化を進めたときに一旦分離したが、分離することによって数学はより強力なツールと化して、物理学に戻ってきた。

同じことが自然言語と数理論理にも当て嵌るようだ。

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