- ほいで、ツェルメロが、「選択公理があれば、整列可能定理を導出できる」ことを示した。
- これは、公理として何を置いていいのが数学の嗜みというか節度なの?ということの問題を引き起した。
- この点でいうと、私は数学的実在または実在感というのは期待していないので、「便利だったり、それから導出される世界が豊かならいいじゃん」と思ってしまう。だけど、数学を本職でやっている人はそれじゃすまないんだろうね。
- 実在感を求めると、それはとどのつまり、科学になってしまうのではないか。まあ、物理学とかは、あちらはあちらで迷走してそうだが。
- 「集合論を、全く抽象的な枠組みの中で取り扱っている限り、選出関数を記述しようにも、記述する方法など何もないだろう。集合論のように、できるだけ普遍的な適応性をもたせようと、抽象化を目指すと、今度は逆に、その理論全体の中で通用するような、対象を具体的に明治する一般的な方法を、しだいに見失ってしまうのである。これは、無限の認識とは、また多少別の問題である。」これはabstract nonsenseであったり、圏論あたりのこともあてはまるのかな。
- 「整列可能定理=>選択公理」は簡単。
2008年7月24日木曜日
【集合】第26講 整列可能定理と選択公理
こつこつ。
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